阿讃戦国史お手合い掲示板 11609


【康暦の政変。細川頼之、管領を罷免。】をupしました!

1:管理人 :

2024/10/17 (Thu) 10:01:13

https://bbs10.fc2.com//bbs/img/_889700/889665/full/889665_1729126874.jpg 2024.10.16

【康暦の政変。細川頼之、管領を罷免。】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1379Ga.htm

康暦元年、かねてから反頼之派の巨魁であった土岐頼康、佐々木(京極)高秀らの軍勢が上京し御所巻で義満を威嚇して
細川一族を京から追い落とすことに成功しました。これが名高い「康暦の政変」です。記事ではこのあたりの対立関係をわかりやすく?相関図にしておきました。
頼之は管領を解任され、斯波義将が新しい管領となります。これに続いて義満が、頼之追討令を発したのはさすがの頼之も驚いたとは思うのですが
その後の迅速な行動をみれば、ある程度の予測はしていたものと思われます。
義詮の遺言通り、幼少の頃から義満を育て上げたのですから、負けん気が強い割には強い者に巻かれてしまう義満の生まれながらの”お坊ちゃん”性格は、
頼之の頭の中ではすでに織り込み済みで、おそらく強行派の斯波義将らに丸め込まれるのは時間の問題だったからです。
そこで間髪を入れずに河野通直を討つことは、その機先を制し、義満の鼻柱を折るには格好の標的だったに違いありません。
もちろん、義満も大軍勢を四国に送ることも考えたでしょうが、万が一、頼之と今川了俊が南朝にでも寝返るとかなりヤバくなるので、その後は様子見に終始することになります。
そして次第に和睦の方向に進んでいくのですが、義満が厳島参拝にかこつけて、頼之の宇多津の居館で談笑するまでに至るには、なお9年の歳月が必要でした。
このあたりの経過は、また項を改めて記載する予定です。お楽しみに!・・
しかし、南海治乱記にはこのあたりの事項に関して何の記載もなく、謎としか言いようがありません。

⇒は「続英雄百人一首」の斯波義将です。
斯波氏は武衛家とも呼ばれ、足利家と同格で越前で新田義貞を討ち、観応の擾乱でも尊氏側で戦い、家格と戦功は細川氏や畠山氏よりはるかに高い家柄でした。
件の佐々木道誉と対立したために一時、親子ともども失脚して越前に逼塞せざるを得ませんでしたが
康暦の変以降は、義将が管領となり応永17年、60歳で病没するまで宿老として、義満、義持2代に仕えました。
人物としても細川頼之に勝るとも劣らないほど高潔、実直であり了俊のような文学の才もあり、後世の評価はかなり高いです。
頼之の敵として、小生などはかなり悪い方に偏見を持って見てしまうのですが・・(^^;

斯波氏は四国ではあまり馴染みのない氏族(小生が知らないだけかもしれませんが・・)ですが
斯波は、大河ドラマの「炎立つ」で有名になった陸奥国奥六郡のひとつである紫波郡から名付けられた姓氏で、鎌倉時代に足利泰氏から分かれた名族中の名族です。
斯波義将の頃がもっとも最盛期で、応仁の乱では一族の義廉と義敏が争ったために次第に力を失っていきました。
義将の家系は越前、尾張、遠江の三国の守護を世襲しましたが
応仁の乱後は各国の守護代やその下の奉行職の力が強くなり、越前は朝倉氏に、尾張は織田氏に、遠江は甲斐氏に取って代わられて衰退してしまいました。
一方、奥州にもそのまま根付いた斯波氏の庶流が多く、最上氏や大崎氏などがこれに属します。
秀吉以降は、この2つの家筋が大河でも取り上げられて有名ですが、大崎氏は葛西・大崎一揆で伊達政宗に裏切られる形?で抹殺され復活はしませんでした。最上氏も最後まで大大名として江戸時代まで残りましたが義光の孫の義俊の代に最上騒動がおこり改易されました。
もう一つの管領家である畠山氏も義就と政長の熾烈な抗争が孫の代まで続き、この二流も大名家としては残れませんでした。
細川氏も戦国から関ヶ原までで大半は衰退してしまったのですが、わずかに細川顕氏から室町幕府奉公衆として続く奥州家に養子に入った細川忠興の家系が熊本54万石で残ったのは、起死回生の一発ホームランで実にお見事というほかはありませんね。かなり危ない綱渡りではありましたが・・まあ、結果良ければ全て良し!!

では、また。


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