阿讃戦国史お手合い掲示板

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【白峰合戦記】をupしました! - 管理人

2024/05/16 (Thu) 23:30:11

2024.5.16
【白峰合戦記】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1362Fb.htm

将軍、足利義詮の清氏追討令を受けて備中にいた細川頼之は讃岐の宇多津に上陸します。
時を同じく細川清氏も高屋城に移動し、しばらくは対峙する状態が続きました。
兵数に劣る頼之は自身の母を清氏の許に派遣しいろいろと穏便に済ませられるよう説得しましたが、結局は不調に終わったようです。
頼之は時間が経てばますます不利になるばかりなので
家臣の新開真行に囮の兵を付けて中院源少将の籠もる西長尾城に向かわせ
清氏が援軍を送ったすきに高屋城を攻略する詭計を案じ7月23日に実行に移しました。
案の定、術中に陥った清氏は36人の家臣とともに高屋城近くの綾の河原に打ち出して壮絶な討死を遂げました。
今考えても余りにも無謀な吶喊突撃で、少し籠城しておれば援軍もその日のうちに引き返して来る訳ですから負けることはなかったと思うのですが、
頼之のことですから事前に工作して内部から崩壊するよう仕向けたのかもしれませんね。
⇒は、「英雄百人一首」に描かれる細川頼之です。

今回は高屋城の場所と新開真行の行路について少し考えてみました。
坂出市林田町に残る「史跡三十六」は清氏戦死の地と伝えられ、中山城山の建てた「細川将軍戦跡碑」や小田耕岳の顕彰碑、千鳥の松の碑 などで昔日を偲ぶことができます。日露戦争時の砲弾も奉納されていますが、おそらくこれは、清氏に討ち取られた野木備前次郎が乃木希典大将の先祖であることから第十一師団長時代にこの地を訪れており、それを記念するものでしょう。
ここは小生にとっても思い出深い地。幼稚園の時にすぐ近くに住んでおり父母とよく散歩がてら訪れたものでした。まだ産業道路も白峰中学校もない時代で夏は蛍が乱舞しており、虫籠にたくさん採ってきてその淡い明滅を眺めながら寝たことをよく憶えています。
恥ずかしながら文末に、高校の頃、受験勉強の合間に書いた自作の拙い詩を披露させていただきました。「史跡三十六」は小生にとって幼い日の思い出とともに歴史趣味の原点でもある大切な場所でもあるのです・・と書くとかっこいいのですが、実は近くに幼稚園の頃から好きな女の子の家があって、その淡い思いと古戦場の懐古の情を重ね合わせて青春の憂鬱に浸っていただけで、まあ、ここでも清氏はいい出しに使われたわけです。・・ホントに可哀想な清氏・・(T^T)

では、また。

【細川清氏、白山で十河、神内、三谷3兄弟に謁見す。】をupしました! - 管理人

2024/04/26 (Fri) 21:37:32

2024.4.26

【細川清氏、白山で十河、神内、三谷3兄弟に謁見す。】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1362Fa.htm

細川顕氏、頼春の亡き後、細川家の惣領として頭角を現したのが、和氏の嫡男、清氏でした。
香川県ではとかく白峰合戦が中心に語られることが多いのですが
すでに「正平の一統」以後、畿内を中心に活躍しており足利尊氏の死後は義詮を補佐して「太平記」でも多くの武功譚が語られています。
清氏の没落は、佐々木道誉との折り合いが悪かったことで、清氏が彼に対抗したことで老獪な道誉を本気で怒らせたのは致命的でした。
最初は将軍に恭順の意思を示しましたが許されないために、結局は南朝に身を投ずるしか術はなかったのです。
しかし畿内では馳せ参ずる武士もほとんどなかったため古巣の四国に渡り、他の南朝勢力とも連携しながら勢力拡張を狙ったのでしょう。
この回は、讃岐三木郡白山(しらやま)の清氏の陣所に植田3兄弟が伺候したときの逸話です。「金毘羅参詣名所図会」にその様子を描いた挿絵がありましたので掲載しておきました。2人の兄を差し置いていろいろと指図する”こましゃくれた”十河十郎の機知ぶりが光る逸話でもあります。
逸話もさることながら、なぜ細川清氏が白山に進駐したのか?も拙考してみました。強い勢力の三木氏や寒川氏のど真ん中に陣を構える訳ですから、史書には名が挙げられていませんが、両氏も清氏に近い立場だったと考えられます。それが後年、三木氏が滅び、寒川氏も安富氏の勢力下に置かれる原因になったのかもしれませんね。香川氏の支配する西讃に比べると、安富氏の支配する東讃にはトラブルが多く、その素因に清氏があるのかもしれません。とても興味があるところです。

⇒は、「続英雄百人一首」(Wikipedia参照)に描かれる細川清氏の想像図です。勇壮なイメージですが、和歌や宗教にも造詣が深く、婆娑羅の佐々木道誉とまではいかなくても、この点では禅宗に帰依した頼之にも引けを取らないかもしれません。しかし、怜悧狡猾さで道誉の足下にも及ばなかったことが清氏の不覚だったとも言えるでしょう。
さて、次回は「白峰合戦」です!幼稚園のときから”史跡三十六”の近所に父の転勤で住んでいたことから今に至るまでの小生の歴史趣味の原点でもあります!「太平記」の記述から、頼之の股肱の臣である新開真行の行程について推察します!お楽しみに・・!

では。

【大森彦七、楠木正成の霊と闘う】をupしました! - 管理人

2024/04/04 (Thu) 11:24:19

2024.4.3

【大森彦七、楠木正成の霊と闘う】をupしました。
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1342Ha.htm

香川県では余り知られていませんが、おとなりの愛媛県では楠木正成を敗死させた豪傑として永く語り伝えられている大森彦七の伝説です。
伊予から太平記の作者(小島法師か?)に飛脚で知らせてきたという前置きで
「太平記」第23巻にかなり唐突な感じで長々と語られています。
その内容は楠木正成の亡霊が大森彦七の佩刀を奪い取ろうとして執拗に何度も取り憑いたものの
結局は本懐を遂げることができなかったという妖怪譚です。
彦七の佩刀は「あざ丸」と呼ばれる脇差と思われ
これがまた、所有する者の目に祟るという厄介な代物で
平(藤原)景清、大森彦七、陰山一景、丹羽長秀・・とすべて眼病や目を射られて所有者を転々としながら、現在は尾張の熱田神宮に所蔵されています。
とはいえ、彦七も最終的にはこの脇差に怨霊から命を救われた訳で、禍と福を併せ持つツンデレ的な性格が豪傑には堪らなかったのかもしれませんね・・(^^;

讃岐との関わりは「あざ丸」が宇多津の沖に沈んでいたのを漁師の網にかかったことで彦七の手に収まったというところです。
怨霊の口から語られることなので信憑性には全く欠けるのですが、なんとなく気になるところでもあります。
さらに楠木正成と讃岐とは、初代高松藩主の松平頼重が正成の子孫を藩士として招聘したことで深く関わっていきます。
弟の光圀が高く楠公を顕彰するのに負けてはならじというライバル心もあったかもしれません。
勤皇の象徴を手にいれたことで高松藩も水戸に劣らぬ勤皇派の温床となり、幕末には松平金岳、松崎渋右衞門を始め、琴平近辺には奈良松荘や美馬君田、日柳燕石、三好殿山など尊皇攘夷の権化とも言える様な処士を輩出することになります。
勤皇は次第に倒幕思想に変わり、水戸藩などは勤皇派と佐幕派で血で血を洗う藩内闘争に明け暮れ、明治維新時には「そして誰もいなくなった」状態になってしまったのですから、これもまた楠木正成の怨霊のしわざなのかもしれませんね。
そういえば、高松楠氏の先祖の楠木正虎の子の正辰は楠木流軍学の大家で、かの由比正雪にも多大の影響を与えたと伝えられています。
やはり、楠木流軍学⇒倒幕思想は必然の帰結と言えるのかも・・

⇒は「伊予の奇桀 大森彦七」(木村 中著 近代文藝社 平成4年)の表紙。正成の怨霊のさることながら、西条市丹原町の「赤滝城」について記述があるのも注目です。ここは四国で最も高く峻険な場所にある城跡で、到達が至難の技であるということでも有名です。(実際の到達者報告は↓です)
城というより大きな岩窟ですが、大森氏が最初に拠った城とも伝えられています。「南海治乱記」で伊予の砦の表現として使用される「究竟ノ巣穴」という表現も的を得ているように思います。
小生も一度は訪れてみたいとつねづね思っている場所ではありますが・・でも、到達者の記事を読むと相当危険みたいで・・今の脚では無理かも・・

https://ameblo.jp/girou88/entry-12617261571.html

では、また。

画像を追加しました! - 管理人

2024/04/01 (Mon) 17:25:33

2024.4.1

先の【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】に画像を追加しました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1359Fa.htm

「金毘羅参詣名所図会」の中に
細川繁氏が崇徳院の神兵に討ち取られる挿絵がありましたのでそれを追加しました。
繁氏の兵士らも天狗に散々に追い立てられている様子が、よくわかります。
この天狗達は、おそらく崇徳院に仕える「相模坊」でしょう。地元では「しゃがんぼはん」と発音します。
最近は「坂出天狗マラソン」でとみに有名になりました。
”天狗”と”10(テン)具”をかけた「天狗うどん」も好評です!・・(^^

先日、坂出に帰省すると駅前のイオンも閉店し、北口にあった「白木屋」も撤退していました。
高松は新たに駅構内にオープンした「高松オルネ」で沸き返っていますが
ますます、寂れる一方の我がふるさと坂出・・
なんとか、起死回生の策を見いだしてもらいたいですね。

では!

【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】をupしました! - 管理人

2024/03/18 (Mon) 20:50:24

2024.3.18

【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1359Fa.htm

正平の一統を一方的に破り、都に総攻撃をかけた南朝軍でしたが
残念ながら、直義を謀殺し、関東で優位に立った足利尊氏に力を得て
義詮軍が都を攻め落とし、男山八幡まで進出した後村上天皇を敗走させます。
そのときの疵が元で総大将の細川顕氏は病死してしまいます。
その後を継いだ繁氏もよく義詮の期待に応え
讃岐や土佐の守護として南軍討滅に努力を重ねました。
その甲斐あって、延文4年に力を盛り返した九州の南軍を討伐すべく「伊予守」として四国の総大将に任じられ
準備のため、讃岐に下るのですが、軍資金を得るために
崇徳院の御料を半済で侵したために、その怨霊に呪い殺されてしまいました。
その真偽はともかくとして、繁氏の死が病死というよりは不慮の死に近いものであったと推測され
小生は、毒殺を疑っています。皆様のご意見は如何でしょうか?(^^;

さて、小生の母方の里は、以前にも書きましたが、第12代景行天皇の御代、悪魚を退治した日本武尊皇子の武殻王(たけかいこ王、或いはたけこ王)に始まる
系図を保有しています。いわゆる讃留霊王系の綾氏族で
東讃に多い神櫛王系とは一線を異にする讃岐を代表する古代氏族です。
その後、国司の藤原家成の血を入れたのが香西系であり
恐れ多くも崇徳上皇の顕末親王に続くのが綾・林田氏系ということになります。まあ、繁氏を呪い殺した側として少し説明させていただきますと・・(^^;
母の里は江戸時代までは綾姓を名乗っていましたが、江戸時代後期に坂出福江の横潮神社の下に転居したために
宮本と姓を変えたと伝わっています。
塩田を築いた久米通賢もしばしば風呂に入りに来たそうで福江では旧家として知られていました。
また、崇徳天皇を祭る西庄の白峰神社のお下がりには
宮本家の当主が臨席されないと開始できなかったそうです。
このあたりの歴史は、三木豊樹氏の「真説 崇徳院と木の丸殿 綾北探訪記 前編」(昭和39年)や「金山村誌」(昭和11年)に詳しく書かれています。
おそらく、崇徳院のお世話をした綾高遠の血族として
「御陵衛士」のような役割をしていたのではないでしょうか?
最近のトピックスとしては、演出家の宮本亜門とは遠い親戚であることを、NHKのファミリーヒストリーで見てビックリした次第です。その中で「金山村誌」も紹介されていました。
https://plus.tver.jp/news/37939/detail/

⇒は、小生が高校生の頃、宮本家の祖父から借りてマジックで書き写した「宮本家家譜」の表紙です。
いずれ、この内容も紹介したいと思っています。
今年のお正月に、久しぶりに宮本家を訪れて系図のことを尋ねてみたのですが、「家を改築してどこかにはあると思うが、どこにあるのか分からない。」ということで、少しガッカリしてしまいました。
おそらく仏壇の中ではないかと踏んでいるのですが、他人の家の仏壇を開けまくるのも憚られて実行できませんでした・・(´⌒`。)グスン
ぜひ、探し出して家宝にしてほしいですね。

では。

「香西五郎、刺殺。六郎を詫間氏に託す。貴布禰神社創建」を更新しました! - 管理人

2024/03/01 (Fri) 20:09:16

2024.3.1

「香西五郎、刺殺。六郎を詫間氏に託す。貴布禰神社創建」(1353年讃岐の項目)を更新しました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1353Fa.htm

正平の一統の破綻による南朝軍の都への乱入で細川頼春や香西家資は討死してしまいます。
家資嫡男の五郎が引き継ぐのが筋とは思うのですが、いまだ戦いの最中であることや、統帥を失った主家の細川家の要請もあったことでしょう・・
幼少の五郎に替わって、叔父の香西資邦を陣代に立てることが家臣の間で取り決められてしまいます。
家資の正室はそれを認めようとはせず、あくまで五郎の家督相続を頑強に主張したために
翌年、五郎は何者かの手により暗殺されてしまいます。
資邦派の仕業であることは疑う余地もないのですが、
もはや資邦派が多数派であり、犯人の探索などが行われる状況ではなく
正室は呪いの言葉を吐いて近くの池に身を投げて自殺してしまいます。
その祟りは凄まじく、資邦派の人々は次々と不慮の死を遂げ
祟りを鎮めようと創建されたのが貴布禰(貴船)神社です。
香西家に関する事項だけに、香西成資の筆致も冴えています。

⇒写真は「香西史」(香西町編 昭和15年)の内表紙です。
本項でも香西氏系図は本書からの引用です。(原本は「香西記」ですが・・)
「上下笠居村史」や「香川叢書」所収の「香西記」「香西雑記」などは亡父の蔵書にあるのですが
「香西史」はさすがになく余程の稀覯本に相違なく、父もさぞ残念であったに違いありません。
ところが、今日では「国立国会図書館デジタルコレクション」で全文をいつでもどこでも見ることができます。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1191564/1/1

本当に便利な時代になったと思うとともに、文献検索も容易で著作権も気にすることはなく、
新しい研究が進めやすくなったものだと感慨深く感じます。
今後もコレクションはさらに充実されていく予定(80年間の著作権消失の書籍)ですので実に楽しみです。
読者の方々も、ぜひご利用ください!

では。

新しいウィンドウで開くようにしました。 - 管理人

2024/02/28 (Wed) 10:55:12

管理人です。

知人から、各記事の始めに題名を入れた方がわかりやすいということと
リンクや画像拡大する場合は新しいウィンドウで開いた方が便利であるとの指摘を受け
これからの更新記事はそのようにするようにしました。
昨年の11月からの更新記事も、そのように訂正しました。
何か、他にもご要望がありましたら、忌憚なくご指摘ください。
よろしくお願いします。<(_ _)>

写真は、昨年、小生が入手した丸亀城の古絵図です。
縦横1m以上の大きなもので、おそらく当時の藩用図ではないかとのこと。
小生が秘蔵していても意味がないので、丸亀市立資料館に寄託しました。
何か面白い発見があれば嬉しいですね。(^^

では。

「細川頼春、香西家資ら、七条大宮で討死。」をupしました! - 管理人

2024/02/19 (Mon) 18:14:32

2024.2.18

「細川頼春、香西家資ら、七条大宮で討死。」(1352年畿内の項目)をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1352Ga.htm

「正平の一統」の合意も空しく、わずか4ヶ月足らずで都は南朝軍に攻め込まれます。
都は足利義詮と細川を初めとする少勢しか残っておらず、絶望的な戦いを強いられ、細川頼春は七条大宮で討死してしまいます。
細川和氏、頼春、師氏3兄弟のうち、長男の和氏はすでに亡くなっていましたので
細川軍の統帥は頼春の肩にかかっていたに違いなく、義詮を無事に近江に逃がすことができたのが、せめてもの救いとなりました。
この戦いで南朝が都を占拠し、後村上天皇も都入り確定かと思われましたが、さすがに北朝の巻き返しは迅速で3ヶ月ほどで男山八幡の戦いに敗れて吉野へと引き返していきました。戦術では勝ったが戦略では負けた、ということで、この戦いを最後に南朝は次第に追い詰められていくことになります。

⇒写真はNHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の、細川和氏(上)と細川3兄弟登場の場面です。小生の知人が、あるよ!と教えてくれました。(^^
頼春や師氏の肖像は、後世の想像図すら見あたらないので、おそらく天地開闢以来、最初で最後の”細川3兄弟お出まし”場面ということができるかもしれません。
登場回は「第24回 新政」で、北条滅亡後の鎌倉で、足利方と新田方が悶着を起こしている場面です。
和氏(上)は森山潤久さんが演じ、映像ではテロップ付きです。
3兄弟(下)は、子供とは言え千寿王とその取り巻きには叶わないとみた新田義貞が、鎌倉を離れ郎党を率いて都に上る挨拶に足利邸を訪れた場面で、
義貞に応ずる尊氏正室の登子と嫡男の千寿王(義詮)の後ろに居並んでおり、向かって左から頼春(演:芹沢名人)、和氏、師氏(演:松本公成)で
和氏以外はセリフはなかったということです。
それでも、この一場面だけで、千寿王を護るように尊氏に託された細川家の重要性は十分にアピールできており
さすがは、当時の大河演出家の力量には感心してしまいました。
最近の大河にはそうした重要な伏線があまりなく筋に深さが感じられないと思うのは小生だけでしょうか?

では、また。

「第39回 愛媛出版文化賞」を受賞しました! - 管理人

2024/02/02 (Fri) 19:55:05

管理人です。


「阿讃戦国史」とは関係ありませんが
このたび、拙書「続・市之川鉱山物語」が
「第39回 愛媛出版文化賞」(部門賞)を受賞しました!
去る1月29日、愛媛県松山市の授賞式に埼玉からトンボ返りしてきました!
これも偏に多くの方々のご協力の賜物と、こころから感謝致しております!
簡単な写真と新聞記事などの報告を作成しましたのでご笑覧くだされば幸いです! (^^

https://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/ichinokawa-5.htm

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

とりいそぎ、お礼まで。

正平6年の甲冑?? - 管理人

2024/02/01 (Thu) 16:20:34

管理人です。

→写真は、小生の兜飾りです。
昭和32年の誕生の年に
父が、坂出からわざわざ丸亀まで出かけて買い求めたと聞いています。
初子の長男だったので、父も奮発したのでしょう・・(^^;
当時のこととて、赤糸威も丁寧で金具類もプラスチックなどは一切使われていません。
いまだに五月の節句にはこれだけ飾ってやっています。
さて、大腿部に装着する”佩楯”の裏を見ると
牡丹図柄の片隅に”正平六年六月一日”と書かれています。
正平6年は「正平の一統」の年でもあるのですが
そんなに古い反古紙にも見えず、昔から何だろうと不思議に思っていたのですが
これは
「正平革(しょうへいがわ)」あるいは「御免革(ごめんがわ)」とも呼ばれ
後醍醐天皇から征西大将軍に任命され肥後に下った南朝の懐良親王が
八代の革工に命じて染め出した革染め技法の証しとされるものだそうです。
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%B9%B3%E9%9D%A9-533216
非常に由緒のあるもので、往年の兜飾りにも普通に紙の装飾模様として使用されていましたが
孫の初節句の大事な兜なのに「反古紙」の切れ端を使ったのでは?というクレームが多くなり
最近はあまり使用されなくなったということです。
こうした由緒のものが失われていくのは本当に断腸の思いもしますが
これも時代の流れなんでしょうね・・( Ĭ ^ Ĭ )

では、また。

「正平の一統」をupしました! - 管理人

2024/01/17 (Wed) 22:01:44

明けましておめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い申しあげます。

2024.1.17
「正平の一統」(1351年畿内の項目)をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1351Ga.htm

足利尊氏が幕府を開き、南朝の主立った英雄達も世を去り
北朝優位で推移するのもつかの間、尊氏と直義の間で深刻な確執が生じます。
元々は直義と執事の高師直の仲違いから始まるのですが
次第にエスカレートして、両巨頭の足利兄弟間の戦いへと発展していきます。
直義を関東に追うため、尊氏が南朝に降伏し後村上天皇を都に還御させ三種の神器も南朝に渡し
北朝の3上皇を廃位させるというのですから
都人は開いた口が塞がらず
まさに天地がひっくり返るような出来事だったに違いありません。
このとき、わずか4ヶ月足らずですが北朝が廃され
年号も”正平”に統一された時期が存在します。
これを「正平の一統」と呼んでいます。
そのあと、直義の死とともに南朝によって一方的に破棄されてしまうのですが
尊氏は本気だったのかもしれませんね。ただ後村上天皇は後醍醐天皇の遺志を継ぐことを絶対としていましたので
足利尊氏を征夷大将軍とは認めようとせず、破談すべくして破談したということになるのかもしれません。
しかし、尊氏が直義討伐の時間を稼ぐことができたのは、さすが強運の持ち主と言えましょう。
小生も完全に流れを理解している訳ではありませんが、できるだけ簡潔に纏めてみました。
「南海治乱記」には全く触れられていませんが、細川頼春の戦死を理解するためには絶対に必要な流れですので・・
冒頭には「太平記」の記事を挙げておきました。これからも南朝側は「正平の一統」を方便として捉えているのがわかります。

⇒写真はNHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の、北畠親房(近藤正臣)と足利尊氏(真田広之)、佐々木道誉(陣内孝則)の秘密会談の場面です。
老獪な親房を前に、南朝への降伏と後村上天皇の都への還御を持ち出して説得しているところです。
実際は義詮と南朝の使者の忠雲僧正らの間で密約を交わして和睦がなったそうですが
親房と尊氏の秘密会談が実際にあったとすれば本当にスゴい緊張感だったでしょうね。
ドラマでもその臨場感は見事に再現されており
思い出すだけでもゾクゾクしてきます。(^^;

では、また。

年表を最新に更新させる方法。 - 管理人

2023/12/21 (Thu) 21:27:11

管理人です。

今年から執筆再開とはいいながら、定年延長での仕事が忙しく、毎月の更新もままならない状況ですが、ボチボチと更新していきますので
どうか、来年も、よろしくお願い申しあげます。

知人から、HPの年表が最新になっていないのではないかとの指摘を受けました。
確かに、Windows系のEdgeは、履歴が多くなると最新に更新するのに時間がかかる場合があり、画面上側の「更新(Ctrl+R)」をクリックしても最新にならないことが多いようです。
そんなときは、例えば「shift」キーを押しながら「F5」キーを押すと最新にできるようです。
時々、ご確認をよろしくお願いします。
Firefox(昔のネットスケープ ナビゲーター)は普通に更新ボタンで最新になるようです。

なかなか不便ですね。

では、また。
良いお年をお迎えください!

護良親王と坊門清忠・・ - 管理人

2023/12/21 (Thu) 17:27:53

管理人です。

前の記事の続きになりますが
護良親王は、征夷大将軍に任ぜられて信貴山を下るのですが
足利尊氏の横暴を見かねて挙兵するも失敗し、後醍醐天皇にも裏切られた形で足利方に引き渡され鎌倉の土牢に幽閉されました。
中先代の乱で、鎌倉が陥落する寸前に足利直義の兵に暗殺されました。その首級と伝えられるミイラ?が
山梨県都留市の石船神社に安置されています。
https://mainichi.jp/articles/20230118/k00/00m/040/259000c

坊門清忠は勅使として信貴山に派遣され「国中静謐の上は、速に桑門(ここでは天台座主)に復せられんこそ、然るべけれ。」と諭しますが、まず尊氏誅伐が先であると憤って清忠を都に返されます。NHK大河ドラマ「太平記」の信貴山の場面は、概ね原作に忠実であると思われます。

 ⇒写真はその護良親王(上)と坊門清忠(下)。堤大二郎さんの親王も若く溌剌として親王の聡明なイメージをよく演じられていたと思います。
 藤木孝さんの清忠はまさに快演というか怪演というべきか・・それまでも「必殺仕置人」などでゲイっぽい悪役としてインパクト十分でしたが、小生の中では坊門清忠と言えば藤木孝、藤木孝と言えば坊門清忠のイメージがそのまま定着して今に至っています。晩年は孤独な死であったようですが、名優として拍手喝采しつつご冥福をお祈りしたいと思います。・・合掌・

「中院源少将、西長尾城に入る?」をupしました! - 管理人

2023/12/21 (Thu) 12:08:23

2023.12.21

「中院源少将、西長尾城に入る?」をupしました。(1338年讃岐の項目)
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1338Fa.htm

延元2~3年(建武4~5年)頃は、四国における南朝の活動も活発で
伝承によれば、後醍醐天皇皇子の満良親王が得能通村の導きで西長尾城に入り
時を同じくして中院源少将も同城に入城したとされています。
1次史料の確認がないので、あくまでも推測に過ぎないのですが
中院源少将とは中院定平子息の雅平のことで、後の白峰合戦で討死あるいは自殺したと伝えられています。
「太平記」では一文でさらっと流されているのですが
讃岐人にとっては、戦前から貴重で有り難い南朝の事績であるとして高く評価されてきました。
戦後までは長炭に源少将の墓も残っていたとされ
源少将と行動を共にした土着の小亀氏や大谷氏の城跡や墓も伝えられています。
また、実地調査できる日を夢見ている今日この頃です。

⇒写真はNHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の、信貴山に籠城する護良親王の場面です。
建武新政が成っても、足利尊氏を警戒する護良親王は
後醍醐天皇が下山するよう再三、求めても応じず
坊門清忠が、説得の使者として派遣されたところです。
正面に護良親王(堤大二郎)、背を向けているのが坊門清忠(藤木孝)です。向かって左側に控える2人は
手前が殿の法印(大林丈史)、向こうが近習の公家です。「殿の法印」は二条良忠というれっきとした公家で早くから護良親王に従い天台宗の僧でもあり軍師的な役割で活躍しました。
向こう側の公家の名前は特に設定されていませんが
想像を逞しくするならば、同じく親王に付き従った中院定平あたりかな?と自分なりに思っている次第です。この時、後醍醐天皇が護良親王の策をとっておれば、尊氏の反抗も食い止められたかもしれず、非常に緊張感の伴う場面で、とても印象的でした。(^^;

「讃州藤家興廃記 巻之一」を入手しました! - 管理人

2023/10/20 (Fri) 16:51:52

管理人です。

最近、香西成資が晩年に執筆した「讃岐藤家興亡記 巻之一」
という1冊を入手致しました。
巻之二以下があるかどうかは不明ですが
享保戊戌(3年)と香西本立軒常山
の奥書の墨書きがあることから
最晩年の成資自筆の稿本ではないかと考えています。
特に最後に触れられている香西の旧居付近の
風情の描写は南海通記にも書かれていないと思います。
万が一、成資の自筆本であるなら
いい励みになるとともに、我が家の最高の家宝ともなります。
これを座右に置いて、記事を書くことにします。
何れ、専門家に調査をお願いするつもりですが
今からワクワクしています。((o(´∀`)o))ワクワク

Re: 「讃州藤家興廃記 巻之一」を入手しました! - 氷川っち

2023/12/05 (Tue) 14:37:23

こんにちは
本当に珍しい本を手に入れられましたね。
どのような本か私も楽しみです。

Re:Re: 「讃州藤家興廃記 巻之一」を入手しました! - 管理人

2023/12/06 (Wed) 02:52:03

氷川っち様

管理人です。
ありがとうございます。
当時の写本とかの可能性もありますので
香川県に帰った折に、しかるべき機関に鑑定をお願いするつもりです。
あるいは、香西成資が仕えた福岡藩の方に多くの資料が残っているかもしれませんが・
いまから楽しみです。

「阿讃戦国史」ご笑覧賜り、ありがとうございます。
歴史にはトーシロの戦国ファンタジーに過ぎませんが
ボチボチ、更新してゆくつもりです。
雇用延長で、なかなか忙しく更新も、途切れ途切れになりがちですが
今後とも、よろしくお願い申し上げます。

とりいそぎ、お礼まで。

「財田左兵衛頭義宗、小笠原義盛らが  財田城で、北朝方と戦う。をupしました! - 管理人

2023/11/18 (Sat) 22:19:51

2023.11.18

「財田左兵衛頭義宗、小笠原義盛らが財田城で、北朝方と戦う。」をupしました。(1337年讃岐の項目)
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1337Fa.htm

南北朝時代、讃岐における勤王の代表的な戦いとして
どの郷土誌にも記載されていますが、
残念ながら、「南海治乱記」には記載がありません。
実際のところ、財田義宗や小笠原義盛については
ほとんど分かっていないというのが正直なところです。
成書にある記事を自分の知る限り、できるだけ挙げてみましたが
結局はサッパリと要領を得ないというのが率直な感想です。
新たな一次史料が発見されない限りは、歴史の彼方に消え去った英雄ということになるのでしょうか?
しかし、この地で三度も激戦がおこなわれたというのは
全国でも稀なケースであると思います。
永く、郷土の誇りとして語り継いでいきたいものです。

⇒写真は、NHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の細川顕氏です。
ウルトラセブンの森次晃嗣さんが演じられました。
細川顕氏は頼貞の嫡男で讃岐を始め、河内や土佐の守護にも任命されました。
しかし、河内で楠木正行との戦いに大敗して同国守護を解任されたり
観応の擾乱では足利直義について尊氏と敵対しましたが
ほどなく再び尊氏方に帰順に、義詮の側近として活躍しました。
戦いにはめっぽう弱く、優柔不断な性格であったようですが
森次さんの顕氏は、こころに裏表がなく愚直な武将として熱演されています。
https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009071556_00000

ドラマでは、高師直、師泰兄弟を討ち果たした石堂頼房や上杉能憲の恩賞を尊氏が認めず、
それを認めさせるために直義方の桃井直常に強く言われて顕氏と齋藤利泰が将軍邸を訪れるのですが
薪割りをしていた尊氏を手伝いながら、自分たちの心を見透かされているのがわかり
再び尊氏に靡いてしまう辺りは、とても印象的でした。
征夷大将軍の威厳とは、そういうところにあるのでしょうね。(^^
まあ、「太平記」にそんな記事はなく
単なるドラマの演出ですが、今も記憶に残っています。

では。

四国インターネットが復旧しました! - 管理人

2023/11/16 (Thu) 08:34:47

管理人です。
本日、四国インターネットのwebサイトが復旧致しました。
長い間、ご迷惑をおかけ致しました。
このプロバイダーは、1997年頃からお世話になっており
SNSの発達した今日では、少し時代遅れの感もあるのですが
今も大変、お世話になっております。
今はNojimaの子会社となり、本社も横浜にあるのですが
もともとは新居浜発祥のプロバイダーとして、とても愛着を持っております。
どうか、今後とも、よろしくお願い申しあげます。

とりいそぎ、お詫びとご報告まで。

「伊予国千町ヶ原合戦記;巻之一」を追記しました! - 管理人

2023/11/10 (Fri) 11:31:20

2023.11.10

「伊予国千町ヶ原合戦記;巻之一」を書き直しました。
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1340Ea.htm

宮方は、新田義貞弟の脇屋義助が伊予に下向し
勢力の挽回に期待したのですが、あらぬことか急死してしまいます。
それを知った細川頼春は絶好の好機とみて、大軍を伊予に進め
世田山城の籠城する南朝方の守護、大舘氏明を討ち取ります。
ちなみに、北朝方の当時の守護は河野通盛です。こちらは許されて存続します。
しかし、後年再び、細川頼之を激怒させて攻められるんですけどね。(^^;
千町ヶ原と世田山城の戦いは、勤王の鑑として
戦前は教科書にまで登場しましたが、
苦戦を強いられる南朝側の劣勢は如何ともしがたいものでした。

→写真はNHK大河ドラマ「花の乱」(1994年放映)の大舘右馬助(上;せんだみつお)と大舘佐子(下;鶴田真由)です。
大舘氏明が討死して、一時は新田一族として存亡の危機に立たされますが
子の義冬は九州に潜伏していたのを佐々木道誉に見いだされて
再び室町幕府の奉公衆として返り咲きました。
ドラマの右馬助は架空の人物とのことですが
おそらく大舘持房か教氏がモデルと思われます。
応仁の大乱で、こうした武家勢力もどちらにつくかで
家名を潰しかねない状況に置かれますが
飄々と戦乱を生き抜く姿を、せんださんはよく好演されていましたね。
大舘佐子は実在の人物で持房の娘です。
足利義政の側室となり、子まで設けましたが、結局は日野富子には勝てませんでした。
ドラマでは、日野富子(三田佳子)や今参局(かたせ梨乃)の
強烈な二大キャラに囲まれて、やや影が薄いのですが
逆に悲劇的な可憐な姿が、美しい鶴田さんと重なってよくマッチしていました。
「花の乱」は一般的には視聴率も今ひとつでしたが、素晴らしい配役で、あの複雑な応仁の乱をよく描き切っていたと思います。
小生の中では、大河の最高峰のひとつです!
また、再放送などで見てみたいものです。

では、また。


お知らせ! - 管理人

2023/11/10 (Fri) 08:40:42

管理人です。

最近、四国インターネットが、セキュリティ不足という
「ERR_SSL_PROTOCOL_ERROR」の表示とともに、繋がらなくなっています。
問い合わせたところ、来週には改善するようです。
それまで、ご不便をおかけしますが
よろしくお願い申しあげます。
ブラウザ「firefox」は正常にみれるようです。
昔のNetscapeですが、今は使用している人は少ないでしょうかねえ・・

とりいそぎ、お詫びまで。

太平記の「本間孫四郎遠矢事」を追記しました。 - 管理人

2023/11/05 (Sun) 22:09:57

2023.11.5

太平記の「湊川合戦」の記事を転記しました。
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1336Gb.htm

この戦いは武家方に決定的な勝利をもたらせたとともに
楠木正成が戦死した日本史上、最も有名な戦いの一つです。
「南海治乱記」には何の記述もないのですが
讃岐武士がおおいに活躍したことが「太平記」には書かれています。
余り名誉とは言いがたい書かれ様ですし、このことに触れている郷土史書も意外と少ないのですが
まあ、ぜひお読みになってみてください。
讃留霊王系綾氏族の香川氏の存在も興味深く感じています。

→は、NHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の
湊川合戦時の楠木正成です。武田鉄矢さんが熱演しました。
ドラマの中では烏帽子姿の正成が多く、有名な三つ鍬形兜に身を包んだ姿は意外と少なくて貴重です。
正成を誰にするかで、このドラマの成功も決まると思っていましたので
武田鉄矢と聞いたときは、これで決まったな!と心底から快哉を叫びました。
今の大河と違い、当時はある程度、原作に忠実でしたので
太平記の記述と武田さんの熱演を重ねて、何度もテレビを見ながら泣いてしまったのを憶えています。
あの頃は、いわゆる皇国主義者や愛国主義者もまだまだ多く
NHKに難癖をつけるかもしれないと小生も要らない心配もしましたが
何のトラブルもなく終わったのは、偏に武田さんの人格と素晴らしい演技の賜物と思いました。
小生は、今も自分の書斎に湊川神社で頂いた「非理法権天」の破魔矢を飾っているのですが
「非は理に勝たず、理は法に勝たず・・」という解釈には反対です。字の順番の通りに、一番強いのは「非」、一番弱いのは「天」であると思っています。その方が正成の”悪党”の論理に合っているようにも感じるからです。
皆様のご意見は如何でしょうか?

では、また。


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