阿讃戦国史お手合い掲示板

10075
名前
件名
メッセージ
画像
メールアドレス
URL
編集/削除キー (半角英数字のみで4~8文字)
プレビューする (投稿前に、内容をプレビューして確認できます)

足利義満、厳島参拝後、宇多津に逗留。細川頼之と和解。】をupしました! - 管理人

2024/11/19 (Tue) 07:57:23

2024.11.18

【足利義満、厳島参拝後、宇多津に逗留。細川頼之と和解。】をupしました。
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1389Fa.htm

「康暦の政変」で出家し讃岐に隠遁した細川頼之は
10年間、讃岐に留まります。しかし、この間も無為に過ごした訳ではなく
自分の兄弟や子息(頼之の実子は伝えられておらず養子)をそれぞれ四国や淡路、備中、摂津に配して
分国制を強化していったと思われます。
養子の頼元に表では赦免運動を行わせる一方で、自分を追いやった将軍義満の意向が明確にならない限りは、
万が一に備えて防御態勢を構築することは当然で、決して悠々自適の日々ではなかったと思う訳です。
そう考えれば年表における10年間の空白は実に大きな意味を持っており、亡き父が常々語っていた「年表の空白こそが歴史なんだ。」という言葉が、今更ながら思い起こされるのです。(T-T)
 そして康応元年(1389年)、将軍は大船団を仕立てて厳島神社を経て九州へ渡ることを計画し、途中で直接、頼之に会いに宇多津へ逗留します。それも行きと帰りの二回も・・
 そして直接の赦免と、来るべき山名氏討伐について頼之の意見を聞いたと思われます。こうして細川氏は再び幕府側の中枢に返り咲く足がかりを得たのですから
頼之の感慨もひとしおであったに違いありません。もちろん、敵対する管領の斯波一族は面白くなかったに違いありませんが
それを押しのけても頼之の復帰を目論む若き将軍の姿に、10年間の成長と威光を逞しく思ったことでしょう。
「鹿苑院殿厳島詣記」にある「武蔵入道召されて、遙かに御物語りありけるとかや。何事にか有りけん、涙をおさへて罷り出でけると聞ゆ。」
の一文にその全てが籠められているように感じます。皆様はいかがでしょうか?
 その当時を偲ぶ円通寺の黒松の写真が四国の実家にありますので、冬休みにコピーしてupする予定です。お楽しみに・・

「やつま」についても愚考を述べてみました。讃岐の山は讃岐富士型のビュート(差別浸食を受けた孤立峰)と屋島型のメサ(差別浸食を受けた台地状の山)が多く独特の景観を誇っていますが
メサは屋島は別格として、高見島や紫雲出山、象頭山など同じような台地形の山が連なっています。
屋島と名の付く島が他に多くあっても不思議ではないと思うのです。高見島が「やつま」と呼ばれた証拠がないので未だ妄想の世界ではありますが・・

⇒写真は「アニメ 一休さん」の義満、一休さん、蜷川新右エ門です。1975~1982年にかけてテレビ朝日系で全296話が放映されました。
一休さんが10歳頃ですから、応永10年(1404年)頃の設定と思われます。明徳の乱、応永の乱を乗り切り、ようやく室町幕府も安定期に入った時期ですが
それでも、様々な事件が起こり、それを一休さんが頓智を働かせて解決するという設定です。
第60話では、斯波氏と細川氏の争いがテーマとなっており、なかなか興味深い一幕もあります。
蜷川新右エ門も、代々、政所執事代を務めた家柄で、後に長宗我部元親を支えた蜷川親長もその一族です。この時代を描いた作品としては稀少で、創作アニメとは言いながら、お子様の教育、歴史のお勉強にもなり、今なお愛されている国民的アニメですよネ!

では!

【細川頼之、伊予に侵攻。11.河野通直戦死。】をupしました! - 管理人

2024/10/30 (Wed) 20:17:58

2024.10.30

【細川頼之、伊予に侵攻。11.河野通直戦死。】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1379Ha.htm

「康暦の政変」で四国へ下野した細川頼之は、半年後の11月に大軍を率いて伊予に進攻し、
将軍義満から頼之追討令を得て喜びに沸く河野通直を瞬殺してしまいます。
もちろん、頼之をここまで追い詰めるのは、頼之個人憎しというよりは四国や摂津、備中を勢力下に収める
細川氏の力を削ぐのが大きな目的で
明徳の乱や応永の乱の先駆けとして、第一の目標にされたことも大きな要因として挙げられるでしょう。
ところが細川氏は内部分裂も起こさず一致団結して抵抗し一丸となって隣接する河野に立ち向かったために
義満の目論見は水疱に帰し、逆に細川氏や今川氏が、いまだ意気盛んな南朝にでも寝返られると
とんでもない事態になってしまうために以後は和睦の方向で話が進むことになります。
それでも、その犠牲となった河野氏は通盛、通朝、通直と
三代に亘って細川氏に誅殺されてしまった訳で
義満の和睦案に従っても、その恨みは連綿として続いたであろうことは想像に難くありません。

もうひとつ考えなければいけないことは
細川氏との前線となる東予地域は河野氏に勝るとも劣らない古代氏族である
今治付近を本拠地に持つ越智氏が勢力を持った地域で、他にも新居氏や別宮氏なども割拠し
結構、各氏族が拮抗する複雑な地域であったと言えます。それも河野氏を中心に団結できない大きな理由と考えます。
そんな中で生子山城の越智俊村(一條俊村)が河野側について善戦したことは一大トピックスとして語り継がれていますが
結局は細川の大軍に包囲されて殲滅させられてしまいます。
その霊を祀った神社が新居浜市種子川に中野神社(新高神社内)として残っているのは、とても興味深く感じます。
おまけに俊村だけでなく、藤原純友や山家清兵衛(宇和島の和霊さん)も合祀されており
3人の非業の死を遂げた人物を祀る御霊神社としては全国的にも希有な存在ではないかと思っています。
小生の「愛媛の鉱物・鉱山のページ」の項目でも触れておきましたので、またご高覧賜れば幸いです。
https://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/bessi-43.htm

⇒写真は、中野神社の標柱です。「伊予掾 藤原純友を祀る」と書かれています。
詳しい祭神については下記をご参照ください。(セキュリティなしですが・・)
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=7729

ちなみに藤原純友を祀る神社は全国でもここと、岡山県倉敷市松島の「純友神社」しかないのではないでしょうか?
双方とも次第に荒れ果てているのは、純友ファンの一人としては、まことに残念なかぎりです・・(^^;

では、また。

【康暦の政変。細川頼之、管領を罷免。】をupしました! - 管理人

2024/10/17 (Thu) 10:01:13

2024.10.16

【康暦の政変。細川頼之、管領を罷免。】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1379Ga.htm

康暦元年、かねてから反頼之派の巨魁であった土岐頼康、佐々木(京極)高秀らの軍勢が上京し御所巻で義満を威嚇して
細川一族を京から追い落とすことに成功しました。これが名高い「康暦の政変」です。記事ではこのあたりの対立関係をわかりやすく?相関図にしておきました。
頼之は管領を解任され、斯波義将が新しい管領となります。これに続いて義満が、頼之追討令を発したのはさすがの頼之も驚いたとは思うのですが
その後の迅速な行動をみれば、ある程度の予測はしていたものと思われます。
義詮の遺言通り、幼少の頃から義満を育て上げたのですから、負けん気が強い割には強い者に巻かれてしまう義満の生まれながらの”お坊ちゃん”性格は、
頼之の頭の中ではすでに織り込み済みで、おそらく強行派の斯波義将らに丸め込まれるのは時間の問題だったからです。
そこで間髪を入れずに河野通直を討つことは、その機先を制し、義満の鼻柱を折るには格好の標的だったに違いありません。
もちろん、義満も大軍勢を四国に送ることも考えたでしょうが、万が一、頼之と今川了俊が南朝にでも寝返るとかなりヤバくなるので、その後は様子見に終始することになります。
そして次第に和睦の方向に進んでいくのですが、義満が厳島参拝にかこつけて、頼之の宇多津の居館で談笑するまでに至るには、なお9年の歳月が必要でした。
このあたりの経過は、また項を改めて記載する予定です。お楽しみに!・・
しかし、南海治乱記にはこのあたりの事項に関して何の記載もなく、謎としか言いようがありません。

⇒は「続英雄百人一首」の斯波義将です。
斯波氏は武衛家とも呼ばれ、足利家と同格で越前で新田義貞を討ち、観応の擾乱でも尊氏側で戦い、家格と戦功は細川氏や畠山氏よりはるかに高い家柄でした。
件の佐々木道誉と対立したために一時、親子ともども失脚して越前に逼塞せざるを得ませんでしたが
康暦の変以降は、義将が管領となり応永17年、60歳で病没するまで宿老として、義満、義持2代に仕えました。
人物としても細川頼之に勝るとも劣らないほど高潔、実直であり了俊のような文学の才もあり、後世の評価はかなり高いです。
頼之の敵として、小生などはかなり悪い方に偏見を持って見てしまうのですが・・(^^;

斯波氏は四国ではあまり馴染みのない氏族(小生が知らないだけかもしれませんが・・)ですが
斯波は、大河ドラマの「炎立つ」で有名になった陸奥国奥六郡のひとつである紫波郡から名付けられた姓氏で、鎌倉時代に足利泰氏から分かれた名族中の名族です。
斯波義将の頃がもっとも最盛期で、応仁の乱では一族の義廉と義敏が争ったために次第に力を失っていきました。
義将の家系は越前、尾張、遠江の三国の守護を世襲しましたが
応仁の乱後は各国の守護代やその下の奉行職の力が強くなり、越前は朝倉氏に、尾張は織田氏に、遠江は甲斐氏に取って代わられて衰退してしまいました。
一方、奥州にもそのまま根付いた斯波氏の庶流が多く、最上氏や大崎氏などがこれに属します。
秀吉以降は、この2つの家筋が大河でも取り上げられて有名ですが、大崎氏は葛西・大崎一揆で伊達政宗に裏切られる形?で抹殺され復活はしませんでした。最上氏も最後まで大大名として江戸時代まで残りましたが義光の孫の義俊の代に最上騒動がおこり改易されました。
もう一つの管領家である畠山氏も義就と政長の熾烈な抗争が孫の代まで続き、この二流も大名家としては残れませんでした。
細川氏も戦国から関ヶ原までで大半は衰退してしまったのですが、わずかに細川顕氏から室町幕府奉公衆として続く奥州家に養子に入った細川忠興の家系が熊本54万石で残ったのは、起死回生の一発ホームランで実にお見事というほかはありませんね。かなり危ない綱渡りではありましたが・・まあ、結果良ければ全て良し!!

では、また。

【足利義満、菊池氏討伐のため九州下向か?】をupしました! - 管理人

2024/10/10 (Thu) 14:48:58

2024.10.10

【足利義満、菊池氏討伐のため九州下向か?】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1374Ha.htm

応安3年、九州探題に任命された今川貞世(了俊)は
2年の間に九州北部に攻め入り、太宰府を奪還するとともに肥後にも侵攻する勢いを見せます。
前探題の渋川義行は九州に上陸することもできなかったので、了俊の用兵の才覚に議論の余地はありません。
ただ、途中で少し欲がでたのか、少弐氏の筑前をほしがり日明貿易にも介入しようと
守護の少弐冬資を暗殺してしまったのは些かいただけませんが
大内義弘の救援でなんとか体勢を立て直し、在任7年あまりで肥後深くまで支配を拡大していきました。
これにより菊池氏の命運も定まったと言えるでしょう。
了俊を九州探題に任命した細川頼之の人を見る眼力はさすがという他なく、菊池勢力の一掃により南北朝統一という
幕府の悲願はほぼ達成されたと言っても過言ではないと思います。 

⇒は、寛政2年発刊の「武家略伝」に描かれる了俊と(左)と養子(実は弟)の仲秋(右)です。
晩年(永享元年)に武家の心構えや規範を箇条書きにした今川状(今川了俊愚息仲秋制詞條々)を仲秋に与えている場面です。
この頃の了俊は、大内義弘の乱(応永の乱)に同調した関東公方足利満兼の乱に加担したとして追討令まで出され
京都に逼塞している状況で失意のどん底であったと思いますが、それに反比例するように文筆の才は冴え渡るばかりで
次々と後世に残る名作を生み出していきます。今川状もその代表作のひとつで、
江戸時代には庶民にまで深く浸透して10万部を売り上げた大ベストセラーともなっています。
webで少し調べて見たのですが、以外に読み下し文や現代語訳は少なく
国立国会図書館デジタルコレクションの「国民思想叢書 士道篇」に読み下し文がありましたのでご参照ください。
https://dl.ndl.go.jp/pid/1224089/1/180

今、読んでも耳の痛い箇所が多々ありますね・・(^^;
ちなみに了俊、仲秋の家系は「遠江今川家」と呼ばれ、宗家の駿河今川家の一門として重用されました。
本記事の今川系図の貞世から続く嫡流末端に”氏俊”の名前がありますが、瀬名姓を継承し、
弟には徳川家康正室の築山殿の実父である関口氏純(親永)がいます。
まさに悲運の今川家の運命は”糾える縄の如し”ですね。そのあたりの事は、またの機会に・・

では!

【細川頼之、足利義満の管領となる。】をupしました! - 管理人

2024/09/27 (Fri) 19:50:02

2024.9.27

【細川頼之、足利義満の管領となる。】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1367Ga.htm

貞治6年(1367年)、臨終の足利義詮の遺命を受けて細川頼之は足利義満の管領に任じられました。
まだまだ南朝勢力も九州では健在で、北朝内でも山名氏と赤松氏の争いが顕在化し
まさに内憂外患、非常に舵取りの難しい時期に幼主の後見となってしまった訳です。
それから康暦の政変で失脚する12年余りの間に九州の南朝の力を削ぎ
強大な守護家の一族争いに介入してその勢力をある程度弱体化するのには成功しましたが
次第に義満自身に煙たがられる存在になるとは、頼之にも考えが及ばなかったことでしょう。
義満が次第に驕慢になることを幕閣の面前で非難したことで、義満の不興を買い失脚に繋がったと言われていますが
義満の威光を高めるために、事前に義満と頼之が打ち合わせた芝居だったという説(細川頼之記)もあるようですが
政変で下野した頼之に、北朝の敵であるはずの河野通直や細川昌氏(清氏の嫡子)までに頼之追討令を発するほどですから
必ずしも芝居だったとは言えないようですね。本気で細川氏を潰そうとしたのかもしれません。
強かで傲慢な義満の性格からすると、あり得ないことでもなさそうです・・
まあ、それが真の将軍家の威光ということかもしれませんがね。クワバラ、クワバラ・・(^^;

⇒は、「本朝百将伝」の楠木正行、正儀兄弟です。
二人とも正成の子息でありながら、これほど対称的な兄弟もないのでは、と思います。
正行は父の遺訓をよく護り、対決姿勢の強い後村上天皇の意向に沿って、無謀な戦いにも挑んでいき見事、四條畷で戦死しました。
そうした一途な忠臣の姿勢に、敵方の足利義詮も深く感動して正行の隣に自分の墓を建てさせた、と伝えられています。
まあ、勝手に敵の大将の墓を隣に建てられた正行がどう思っているかは我々の関知するところではないですがね・・(^^
かたや、正儀はその柔軟な姿勢が最初は後村上天皇に忌み嫌われていましたが
長く南風競わない状況に、次第に北朝との宥和政策に心が動かされるようになり、その窓口として正儀が重んじられるようになります。
残念なことに次の長慶天皇が強行派であったために再び疎んじられて頼之の誘いに乗ることになります。
しかし、裏切り者はまた裏切るかも・・と双方の武将からは信用されず、頼之が失脚してからは再び南朝に帰参しますが、その後の消息はよくわかっていません。
とはいえ、正行よりは北朝との戦いに長い間、明け暮れただけに、その間に理想論ではなく合理的な実践主義を身につけ
そのためには敵とも協力して和平に向けて努力する姿勢は小生も嫌いではなく、寧ろ好感を抱かせます。人間的にも非常に情け深く柔和であったと伝えられています。
江戸時代の南朝正当化の煽りで、現在も評価は必ずしも高いとはいえませんが(肖像もなぜか後ろ向き・・)
現代のような複雑な世界では、もう少し高く評価されてもいいようにも思います。
皆様のお考えはいかがでしょうか?

では、また。

【河野通堯、宮方に参するの記】をupしました!(追加) - 管理人

2024/09/21 (Sat) 07:28:58

管理人です。

年表の

1365年8月:河野通堯、南朝より本領安堵。通直と改名
1368年9月:河野通直、6月に伊予に上陸。仁木義尹を追い旧領を回復す。
1369年11月:河野通直、細川・仁木連合軍を新居郡で破る。

は纏めましたので、❡はすべて同じ記事です。
あらかじめご了承ください。

よろしくお願いします。<(_ _)>

【河野通堯、宮方に参するの記】をupしました! - 管理人

2024/09/21 (Sat) 07:27:50

2024.9.20

【河野通堯、宮方に参するの記】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1365Ha.htm

貞治3年、九州に逃れた河野通堯は南朝の懐良親王に謁見し
以後、南朝の武将として伊予守護に任ぜられ、諱も通直と改名します。
当時、九州は菊地武光が”筑後川の戦い”で少弐氏の軍勢を破り太宰府も占領して
非常に鼻息の荒い時期で、若い通堯の伺候でますます意気軒昂になったことでしょう。
九州で兵力を整えた後、応安元年6月に伊予の松前に上陸して
破竹の勢いで細川氏の被官達を打ち破っていきます。
翌年には新居郡に集結した細川・仁木連合軍を髙峠城付近で撃破して
ついに細川氏を東予から駆逐することに成功しました。
これは、細川頼之が足利義満の管領として上京し四国に不在だったということもあり
南朝の復調とも相まって、ある意味、ラッキーということもあったかもしれません。
これから10年後、康暦の政変で四国に下野した頼之の速攻によってあっけなく討死してしまいました。

⇒は、正平・天慶の乱で活躍?の藤原純友です。
昭和51年のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」で緒形拳さんが扮しました。
なぜ、ここで純友かというと、天慶2年に伊予、讃岐の国府を略奪したからです。
讃岐では国司の藤原国風が国印を首に掲げて命乞いをしたと伝えられます。
同年、伊予国府も襲撃しましたが、これは純友が伊予掾だったので、まあ朝飯前だったでしょうね。(^^;
河野通堯も応安元年に仁木義尹を追って、伊予府中を制圧するのですが
この場所が、未だに確定できないということも讃岐国府と事情が似ていて興味深く感じます。
今治市内であることは間違いないのですが
桜井、中寺、古国分、上徳など候補があるようですが、まだ特定はされていないようです。
国司庁の位置が、府中かといえばそれも曖昧なので、本文でも、「桜井付近か?」としておきました。
ただ、細川頼有の領地に「(散在)徳重」とあり、この位置は中寺付近なので
蒼社川沿いの河口に近い平地に立地していたのかもしれません。
事情は讃岐国府も類似しており、とても面白いですね!

では、また!

【細川頼之、与州に出陣の記】をupしました! - 管理人

2024/09/15 (Sun) 09:18:11

2024.9.11

【細川頼之、与州に出陣の記】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1363Ha.htm

チョーお久しぶりです!白峰合戦をupしてから
もう一つの趣味である市之川鉱山関係の講演会やら雑誌執筆やらで
「阿讃戦国史」がついつい疎かになってしまいました。申し訳ありません。
さて
清氏を討滅した細川頼之は、2年後に伊予へと侵攻します。
これは、河野通盛に幕府の命令として頼之に協力を要請したにもかかわらず
日和見を決めて積極的に軍を動かさなかったことへの報復でした。
もともと通盛は建武新政以来、北朝につき頼之とも旧知の仲でしたが
まだ30代半ばであった頼之の将帥の能力と決断の早さは
老獪な通盛の判断を遙かに超えたものでした。
あっという間に東予に雪崩れ込んだ大軍は世田山城を包囲し
通盛、通朝父子を葬り去ってしまいました。辛うじて脱出した通朝嫡男の通堯は
その後、九州へ落ち延び懐良親王の南朝を頼ることとなります。
「南海治乱記」はこのあたりを無難に纏めていますが、
何となく物足りなさがあるのも事実です。
「予章記」は河野方の動きに詳しく
「細川岡城記」は讃岐の軍勢の動きに詳しいので
この3つを並行して読んでやっと全体像を掴むことができると思いますが、
皆様の感想はいかがでしょうか?

⇒は、「細川頼之補伝」(細川潤次郎 明治24年刊)に描かれる
42歳厄年の細川頼之肖像です。
足利義満の管領となって間もない頃ですが、8年後には
康暦の変で管領を罷免されます。その歳に再び速攻で伊予に侵攻して
通堯改め河野通直を桑村郡(周桑郡⇒西条市)の佐々久原に敗死させてしまうのですから
細川と河野とは何代にも亘って深い因縁があるとしか言い様がありませんね。
ふたつの勢力の混じり合う東予(宇摩郡、新居郡、周布郡、桑村郡)は
その後も複雑な戦国期の経緯を辿ることになります。

では、また。

【白峰合戦記】をupしました! - 管理人

2024/05/16 (Thu) 23:30:11

2024.5.16
【白峰合戦記】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1362Fb.htm

将軍、足利義詮の清氏追討令を受けて備中にいた細川頼之は讃岐の宇多津に上陸します。
時を同じく細川清氏も高屋城に移動し、しばらくは対峙する状態が続きました。
兵数に劣る頼之は自身の母を清氏の許に派遣しいろいろと穏便に済ませられるよう説得しましたが、結局は不調に終わったようです。
頼之は時間が経てばますます不利になるばかりなので
家臣の新開真行に囮の兵を付けて中院源少将の籠もる西長尾城に向かわせ
清氏が援軍を送ったすきに高屋城を攻略する詭計を案じ7月23日に実行に移しました。
案の定、術中に陥った清氏は36人の家臣とともに高屋城近くの綾の河原に打ち出して壮絶な討死を遂げました。
今考えても余りにも無謀な吶喊突撃で、少し籠城しておれば援軍もその日のうちに引き返して来る訳ですから負けることはなかったと思うのですが、
頼之のことですから事前に工作して内部から崩壊するよう仕向けたのかもしれませんね。
⇒は、「英雄百人一首」に描かれる細川頼之です。

今回は高屋城の場所と新開真行の行路について少し考えてみました。
坂出市林田町に残る「史跡三十六」は清氏戦死の地と伝えられ、中山城山の建てた「細川将軍戦跡碑」や小田耕岳の顕彰碑、千鳥の松の碑 などで昔日を偲ぶことができます。日露戦争時の砲弾も奉納されていますが、おそらくこれは、清氏に討ち取られた野木備前次郎が乃木希典大将の先祖であることから第十一師団長時代にこの地を訪れており、それを記念するものでしょう。
ここは小生にとっても思い出深い地。幼稚園の時にすぐ近くに住んでおり父母とよく散歩がてら訪れたものでした。まだ産業道路も白峰中学校もない時代で夏は蛍が乱舞しており、虫籠にたくさん採ってきてその淡い明滅を眺めながら寝たことをよく憶えています。
恥ずかしながら文末に、高校の頃、受験勉強の合間に書いた自作の拙い詩を披露させていただきました。「史跡三十六」は小生にとって幼い日の思い出とともに歴史趣味の原点でもある大切な場所でもあるのです・・と書くとかっこいいのですが、実は近くに幼稚園の頃から好きな女の子の家があって、その淡い思いと古戦場の懐古の情を重ね合わせて青春の憂鬱に浸っていただけで、まあ、ここでも清氏はいい出しに使われたわけです。・・ホントに可哀想な清氏・・(T^T)

では、また。

【細川清氏、白山で十河、神内、三谷3兄弟に謁見す。】をupしました! - 管理人

2024/04/26 (Fri) 21:37:32

2024.4.26

【細川清氏、白山で十河、神内、三谷3兄弟に謁見す。】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1362Fa.htm

細川顕氏、頼春の亡き後、細川家の惣領として頭角を現したのが、和氏の嫡男、清氏でした。
香川県ではとかく白峰合戦が中心に語られることが多いのですが
すでに「正平の一統」以後、畿内を中心に活躍しており足利尊氏の死後は義詮を補佐して「太平記」でも多くの武功譚が語られています。
清氏の没落は、佐々木道誉との折り合いが悪かったことで、清氏が彼に対抗したことで老獪な道誉を本気で怒らせたのは致命的でした。
最初は将軍に恭順の意思を示しましたが許されないために、結局は南朝に身を投ずるしか術はなかったのです。
しかし畿内では馳せ参ずる武士もほとんどなかったため古巣の四国に渡り、他の南朝勢力とも連携しながら勢力拡張を狙ったのでしょう。
この回は、讃岐三木郡白山(しらやま)の清氏の陣所に植田3兄弟が伺候したときの逸話です。「金毘羅参詣名所図会」にその様子を描いた挿絵がありましたので掲載しておきました。2人の兄を差し置いていろいろと指図する”こましゃくれた”十河十郎の機知ぶりが光る逸話でもあります。
逸話もさることながら、なぜ細川清氏が白山に進駐したのか?も拙考してみました。強い勢力の三木氏や寒川氏のど真ん中に陣を構える訳ですから、史書には名が挙げられていませんが、両氏も清氏に近い立場だったと考えられます。それが後年、三木氏が滅び、寒川氏も安富氏の勢力下に置かれる原因になったのかもしれませんね。香川氏の支配する西讃に比べると、安富氏の支配する東讃にはトラブルが多く、その素因に清氏があるのかもしれません。とても興味があるところです。

⇒は、「続英雄百人一首」(Wikipedia参照)に描かれる細川清氏の想像図です。勇壮なイメージですが、和歌や宗教にも造詣が深く、婆娑羅の佐々木道誉とまではいかなくても、この点では禅宗に帰依した頼之にも引けを取らないかもしれません。しかし、怜悧狡猾さで道誉の足下にも及ばなかったことが清氏の不覚だったとも言えるでしょう。
さて、次回は「白峰合戦」です!幼稚園のときから”史跡三十六”の近所に父の転勤で住んでいたことから今に至るまでの小生の歴史趣味の原点でもあります!「太平記」の記述から、頼之の股肱の臣である新開真行の行程について推察します!お楽しみに・・!

では。

【大森彦七、楠木正成の霊と闘う】をupしました! - 管理人

2024/04/04 (Thu) 11:24:19

2024.4.3

【大森彦七、楠木正成の霊と闘う】をupしました。
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1342Ha.htm

香川県では余り知られていませんが、おとなりの愛媛県では楠木正成を敗死させた豪傑として永く語り伝えられている大森彦七の伝説です。
伊予から太平記の作者(小島法師か?)に飛脚で知らせてきたという前置きで
「太平記」第23巻にかなり唐突な感じで長々と語られています。
その内容は楠木正成の亡霊が大森彦七の佩刀を奪い取ろうとして執拗に何度も取り憑いたものの
結局は本懐を遂げることができなかったという妖怪譚です。
彦七の佩刀は「あざ丸」と呼ばれる脇差と思われ
これがまた、所有する者の目に祟るという厄介な代物で
平(藤原)景清、大森彦七、陰山一景、丹羽長秀・・とすべて眼病や目を射られて所有者を転々としながら、現在は尾張の熱田神宮に所蔵されています。
とはいえ、彦七も最終的にはこの脇差に怨霊から命を救われた訳で、禍と福を併せ持つツンデレ的な性格が豪傑には堪らなかったのかもしれませんね・・(^^;

讃岐との関わりは「あざ丸」が宇多津の沖に沈んでいたのを漁師の網にかかったことで彦七の手に収まったというところです。
怨霊の口から語られることなので信憑性には全く欠けるのですが、なんとなく気になるところでもあります。
さらに楠木正成と讃岐とは、初代高松藩主の松平頼重が正成の子孫を藩士として招聘したことで深く関わっていきます。
弟の光圀が高く楠公を顕彰するのに負けてはならじというライバル心もあったかもしれません。
勤皇の象徴を手にいれたことで高松藩も水戸に劣らぬ勤皇派の温床となり、幕末には松平金岳、松崎渋右衞門を始め、琴平近辺には奈良松荘や美馬君田、日柳燕石、三好殿山など尊皇攘夷の権化とも言える様な処士を輩出することになります。
勤皇は次第に倒幕思想に変わり、水戸藩などは勤皇派と佐幕派で血で血を洗う藩内闘争に明け暮れ、明治維新時には「そして誰もいなくなった」状態になってしまったのですから、これもまた楠木正成の怨霊のしわざなのかもしれませんね。
そういえば、高松楠氏の先祖の楠木正虎の子の正辰は楠木流軍学の大家で、かの由比正雪にも多大の影響を与えたと伝えられています。
やはり、楠木流軍学⇒倒幕思想は必然の帰結と言えるのかも・・

⇒は「伊予の奇桀 大森彦七」(木村 中著 近代文藝社 平成4年)の表紙。正成の怨霊のさることながら、西条市丹原町の「赤滝城」について記述があるのも注目です。ここは四国で最も高く峻険な場所にある城跡で、到達が至難の技であるということでも有名です。(実際の到達者報告は↓です)
城というより大きな岩窟ですが、大森氏が最初に拠った城とも伝えられています。「南海治乱記」で伊予の砦の表現として使用される「究竟ノ巣穴」という表現も的を得ているように思います。
小生も一度は訪れてみたいとつねづね思っている場所ではありますが・・でも、到達者の記事を読むと相当危険みたいで・・今の脚では無理かも・・

https://ameblo.jp/girou88/entry-12617261571.html

では、また。

画像を追加しました! - 管理人

2024/04/01 (Mon) 17:25:33

2024.4.1

先の【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】に画像を追加しました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1359Fa.htm

「金毘羅参詣名所図会」の中に
細川繁氏が崇徳院の神兵に討ち取られる挿絵がありましたのでそれを追加しました。
繁氏の兵士らも天狗に散々に追い立てられている様子が、よくわかります。
この天狗達は、おそらく崇徳院に仕える「相模坊」でしょう。地元では「しゃがんぼはん」と発音します。
最近は「坂出天狗マラソン」でとみに有名になりました。
”天狗”と”10(テン)具”をかけた「天狗うどん」も好評です!・・(^^

先日、坂出に帰省すると駅前のイオンも閉店し、北口にあった「白木屋」も撤退していました。
高松は新たに駅構内にオープンした「高松オルネ」で沸き返っていますが
ますます、寂れる一方の我がふるさと坂出・・
なんとか、起死回生の策を見いだしてもらいたいですね。

では!

【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】をupしました! - 管理人

2024/03/18 (Mon) 20:50:24

2024.3.18

【細川繁氏、崇徳院に呪殺される】をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1359Fa.htm

正平の一統を一方的に破り、都に総攻撃をかけた南朝軍でしたが
残念ながら、直義を謀殺し、関東で優位に立った足利尊氏に力を得て
義詮軍が都を攻め落とし、男山八幡まで進出した後村上天皇を敗走させます。
そのときの疵が元で総大将の細川顕氏は病死してしまいます。
その後を継いだ繁氏もよく義詮の期待に応え
讃岐や土佐の守護として南軍討滅に努力を重ねました。
その甲斐あって、延文4年に力を盛り返した九州の南軍を討伐すべく「伊予守」として四国の総大将に任じられ
準備のため、讃岐に下るのですが、軍資金を得るために
崇徳院の御料を半済で侵したために、その怨霊に呪い殺されてしまいました。
その真偽はともかくとして、繁氏の死が病死というよりは不慮の死に近いものであったと推測され
小生は、毒殺を疑っています。皆様のご意見は如何でしょうか?(^^;

さて、小生の母方の里は、以前にも書きましたが、第12代景行天皇の御代、悪魚を退治した日本武尊皇子の武殻王(たけかいこ王、或いはたけこ王)に始まる
系図を保有しています。いわゆる讃留霊王系の綾氏族で
東讃に多い神櫛王系とは一線を異にする讃岐を代表する古代氏族です。
その後、国司の藤原家成の血を入れたのが香西系であり
恐れ多くも崇徳上皇の顕末親王に続くのが綾・林田氏系ということになります。まあ、繁氏を呪い殺した側として少し説明させていただきますと・・(^^;
母の里は江戸時代までは綾姓を名乗っていましたが、江戸時代後期に坂出福江の横潮神社の下に転居したために
宮本と姓を変えたと伝わっています。
塩田を築いた久米通賢もしばしば風呂に入りに来たそうで福江では旧家として知られていました。
また、崇徳天皇を祭る西庄の白峰神社のお下がりには
宮本家の当主が臨席されないと開始できなかったそうです。
このあたりの歴史は、三木豊樹氏の「真説 崇徳院と木の丸殿 綾北探訪記 前編」(昭和39年)や「金山村誌」(昭和11年)に詳しく書かれています。
おそらく、崇徳院のお世話をした綾高遠の血族として
「御陵衛士」のような役割をしていたのではないでしょうか?
最近のトピックスとしては、演出家の宮本亜門とは遠い親戚であることを、NHKのファミリーヒストリーで見てビックリした次第です。その中で「金山村誌」も紹介されていました。
https://plus.tver.jp/news/37939/detail/

⇒は、小生が高校生の頃、宮本家の祖父から借りてマジックで書き写した「宮本家家譜」の表紙です。
いずれ、この内容も紹介したいと思っています。
今年のお正月に、久しぶりに宮本家を訪れて系図のことを尋ねてみたのですが、「家を改築してどこかにはあると思うが、どこにあるのか分からない。」ということで、少しガッカリしてしまいました。
おそらく仏壇の中ではないかと踏んでいるのですが、他人の家の仏壇を開けまくるのも憚られて実行できませんでした・・(´⌒`。)グスン
ぜひ、探し出して家宝にしてほしいですね。

では。

「香西五郎、刺殺。六郎を詫間氏に託す。貴布禰神社創建」を更新しました! - 管理人

2024/03/01 (Fri) 20:09:16

2024.3.1

「香西五郎、刺殺。六郎を詫間氏に託す。貴布禰神社創建」(1353年讃岐の項目)を更新しました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1353Fa.htm

正平の一統の破綻による南朝軍の都への乱入で細川頼春や香西家資は討死してしまいます。
家資嫡男の五郎が引き継ぐのが筋とは思うのですが、いまだ戦いの最中であることや、統帥を失った主家の細川家の要請もあったことでしょう・・
幼少の五郎に替わって、叔父の香西資邦を陣代に立てることが家臣の間で取り決められてしまいます。
家資の正室はそれを認めようとはせず、あくまで五郎の家督相続を頑強に主張したために
翌年、五郎は何者かの手により暗殺されてしまいます。
資邦派の仕業であることは疑う余地もないのですが、
もはや資邦派が多数派であり、犯人の探索などが行われる状況ではなく
正室は呪いの言葉を吐いて近くの池に身を投げて自殺してしまいます。
その祟りは凄まじく、資邦派の人々は次々と不慮の死を遂げ
祟りを鎮めようと創建されたのが貴布禰(貴船)神社です。
香西家に関する事項だけに、香西成資の筆致も冴えています。

⇒写真は「香西史」(香西町編 昭和15年)の内表紙です。
本項でも香西氏系図は本書からの引用です。(原本は「香西記」ですが・・)
「上下笠居村史」や「香川叢書」所収の「香西記」「香西雑記」などは亡父の蔵書にあるのですが
「香西史」はさすがになく余程の稀覯本に相違なく、父もさぞ残念であったに違いありません。
ところが、今日では「国立国会図書館デジタルコレクション」で全文をいつでもどこでも見ることができます。
https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/1191564/1/1

本当に便利な時代になったと思うとともに、文献検索も容易で著作権も気にすることはなく、
新しい研究が進めやすくなったものだと感慨深く感じます。
今後もコレクションはさらに充実されていく予定(80年間の著作権消失の書籍)ですので実に楽しみです。
読者の方々も、ぜひご利用ください!

では。

新しいウィンドウで開くようにしました。 - 管理人

2024/02/28 (Wed) 10:55:12

管理人です。

知人から、各記事の始めに題名を入れた方がわかりやすいということと
リンクや画像拡大する場合は新しいウィンドウで開いた方が便利であるとの指摘を受け
これからの更新記事はそのようにするようにしました。
昨年の11月からの更新記事も、そのように訂正しました。
何か、他にもご要望がありましたら、忌憚なくご指摘ください。
よろしくお願いします。<(_ _)>

写真は、昨年、小生が入手した丸亀城の古絵図です。
縦横1m以上の大きなもので、おそらく当時の藩用図ではないかとのこと。
小生が秘蔵していても意味がないので、丸亀市立資料館に寄託しました。
何か面白い発見があれば嬉しいですね。(^^

では。

「細川頼春、香西家資ら、七条大宮で討死。」をupしました! - 管理人

2024/02/19 (Mon) 18:14:32

2024.2.18

「細川頼春、香西家資ら、七条大宮で討死。」(1352年畿内の項目)をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1352Ga.htm

「正平の一統」の合意も空しく、わずか4ヶ月足らずで都は南朝軍に攻め込まれます。
都は足利義詮と細川を初めとする少勢しか残っておらず、絶望的な戦いを強いられ、細川頼春は七条大宮で討死してしまいます。
細川和氏、頼春、師氏3兄弟のうち、長男の和氏はすでに亡くなっていましたので
細川軍の統帥は頼春の肩にかかっていたに違いなく、義詮を無事に近江に逃がすことができたのが、せめてもの救いとなりました。
この戦いで南朝が都を占拠し、後村上天皇も都入り確定かと思われましたが、さすがに北朝の巻き返しは迅速で3ヶ月ほどで男山八幡の戦いに敗れて吉野へと引き返していきました。戦術では勝ったが戦略では負けた、ということで、この戦いを最後に南朝は次第に追い詰められていくことになります。

⇒写真はNHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の、細川和氏(上)と細川3兄弟登場の場面です。小生の知人が、あるよ!と教えてくれました。(^^
頼春や師氏の肖像は、後世の想像図すら見あたらないので、おそらく天地開闢以来、最初で最後の”細川3兄弟お出まし”場面ということができるかもしれません。
登場回は「第24回 新政」で、北条滅亡後の鎌倉で、足利方と新田方が悶着を起こしている場面です。
和氏(上)は森山潤久さんが演じ、映像ではテロップ付きです。
3兄弟(下)は、子供とは言え千寿王とその取り巻きには叶わないとみた新田義貞が、鎌倉を離れ郎党を率いて都に上る挨拶に足利邸を訪れた場面で、
義貞に応ずる尊氏正室の登子と嫡男の千寿王(義詮)の後ろに居並んでおり、向かって左から頼春(演:芹沢名人)、和氏、師氏(演:松本公成)で
和氏以外はセリフはなかったということです。
それでも、この一場面だけで、千寿王を護るように尊氏に託された細川家の重要性は十分にアピールできており
さすがは、当時の大河演出家の力量には感心してしまいました。
最近の大河にはそうした重要な伏線があまりなく筋に深さが感じられないと思うのは小生だけでしょうか?

では、また。

「第39回 愛媛出版文化賞」を受賞しました! - 管理人

2024/02/02 (Fri) 19:55:05

管理人です。


「阿讃戦国史」とは関係ありませんが
このたび、拙書「続・市之川鉱山物語」が
「第39回 愛媛出版文化賞」(部門賞)を受賞しました!
去る1月29日、愛媛県松山市の授賞式に埼玉からトンボ返りしてきました!
これも偏に多くの方々のご協力の賜物と、こころから感謝致しております!
簡単な写真と新聞記事などの報告を作成しましたのでご笑覧くだされば幸いです! (^^

https://userweb.shikoku.ne.jp/mineral/ichinokawa-5.htm

今後とも、よろしくお願い申し上げます。

とりいそぎ、お礼まで。

正平6年の甲冑?? - 管理人

2024/02/01 (Thu) 16:20:34

管理人です。

→写真は、小生の兜飾りです。
昭和32年の誕生の年に
父が、坂出からわざわざ丸亀まで出かけて買い求めたと聞いています。
初子の長男だったので、父も奮発したのでしょう・・(^^;
当時のこととて、赤糸威も丁寧で金具類もプラスチックなどは一切使われていません。
いまだに五月の節句にはこれだけ飾ってやっています。
さて、大腿部に装着する”佩楯”の裏を見ると
牡丹図柄の片隅に”正平六年六月一日”と書かれています。
正平6年は「正平の一統」の年でもあるのですが
そんなに古い反古紙にも見えず、昔から何だろうと不思議に思っていたのですが
これは
「正平革(しょうへいがわ)」あるいは「御免革(ごめんがわ)」とも呼ばれ
後醍醐天皇から征西大将軍に任命され肥後に下った南朝の懐良親王が
八代の革工に命じて染め出した革染め技法の証しとされるものだそうです。
https://kotobank.jp/word/%E6%AD%A3%E5%B9%B3%E9%9D%A9-533216
非常に由緒のあるもので、往年の兜飾りにも普通に紙の装飾模様として使用されていましたが
孫の初節句の大事な兜なのに「反古紙」の切れ端を使ったのでは?というクレームが多くなり
最近はあまり使用されなくなったということです。
こうした由緒のものが失われていくのは本当に断腸の思いもしますが
これも時代の流れなんでしょうね・・( Ĭ ^ Ĭ )

では、また。

「正平の一統」をupしました! - 管理人

2024/01/17 (Wed) 22:01:44

明けましておめでとうございます。
本年もどうかよろしくお願い申しあげます。

2024.1.17
「正平の一統」(1351年畿内の項目)をupしました!
https://userweb.shikoku.ne.jp/ichirota/1351Ga.htm

足利尊氏が幕府を開き、南朝の主立った英雄達も世を去り
北朝優位で推移するのもつかの間、尊氏と直義の間で深刻な確執が生じます。
元々は直義と執事の高師直の仲違いから始まるのですが
次第にエスカレートして、両巨頭の足利兄弟間の戦いへと発展していきます。
直義を関東に追うため、尊氏が南朝に降伏し後村上天皇を都に還御させ三種の神器も南朝に渡し
北朝の3上皇を廃位させるというのですから
都人は開いた口が塞がらず
まさに天地がひっくり返るような出来事だったに違いありません。
このとき、わずか4ヶ月足らずですが北朝が廃され
年号も”正平”に統一された時期が存在します。
これを「正平の一統」と呼んでいます。
そのあと、直義の死とともに南朝によって一方的に破棄されてしまうのですが
尊氏は本気だったのかもしれませんね。ただ後村上天皇は後醍醐天皇の遺志を継ぐことを絶対としていましたので
足利尊氏を征夷大将軍とは認めようとせず、破談すべくして破談したということになるのかもしれません。
しかし、尊氏が直義討伐の時間を稼ぐことができたのは、さすが強運の持ち主と言えましょう。
小生も完全に流れを理解している訳ではありませんが、できるだけ簡潔に纏めてみました。
「南海治乱記」には全く触れられていませんが、細川頼春の戦死を理解するためには絶対に必要な流れですので・・
冒頭には「太平記」の記事を挙げておきました。これからも南朝側は「正平の一統」を方便として捉えているのがわかります。

⇒写真はNHK大河ドラマ「太平記」(1991年放映)の、北畠親房(近藤正臣)と足利尊氏(真田広之)、佐々木道誉(陣内孝則)の秘密会談の場面です。
老獪な親房を前に、南朝への降伏と後村上天皇の都への還御を持ち出して説得しているところです。
実際は義詮と南朝の使者の忠雲僧正らの間で密約を交わして和睦がなったそうですが
親房と尊氏の秘密会談が実際にあったとすれば本当にスゴい緊張感だったでしょうね。
ドラマでもその臨場感は見事に再現されており
思い出すだけでもゾクゾクしてきます。(^^;

では、また。

年表を最新に更新させる方法。 - 管理人

2023/12/21 (Thu) 21:27:11

管理人です。

今年から執筆再開とはいいながら、定年延長での仕事が忙しく、毎月の更新もままならない状況ですが、ボチボチと更新していきますので
どうか、来年も、よろしくお願い申しあげます。

知人から、HPの年表が最新になっていないのではないかとの指摘を受けました。
確かに、Windows系のEdgeは、履歴が多くなると最新に更新するのに時間がかかる場合があり、画面上側の「更新(Ctrl+R)」をクリックしても最新にならないことが多いようです。
そんなときは、例えば「shift」キーを押しながら「F5」キーを押すと最新にできるようです。
時々、ご確認をよろしくお願いします。
Firefox(昔のネットスケープ ナビゲーター)は普通に更新ボタンで最新になるようです。

なかなか不便ですね。

では、また。
良いお年をお迎えください!


Copyright © 1999- FC2, inc All Rights Reserved.